『嫌われる勇気』を考察する- 人生は線でもあり、点の集合体でもある

日常
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先日、自分の元カノとのLINEを見返す機会に恵まれました。

 

約1年前。2人のトーク履歴には、甘い言葉が並んでいる。一部、業務的なものもあり、2人の関係性の綻びが見え隠れしています。

 

さて、そのLINEを送っているのは実は1年前の自分なのですが、どうも私には、それが自分だと思えないのです。1年前でなくても、半年前、1ヶ月前の自分が送ったトーク履歴を見たとしても、それを送ったのが私だ、ということを信じることができない

人生は、線なのか。はたまた点の集合体なのか。

嫌われる勇気では以下の様に語られています。

チョークで引かれた実線を拡大鏡で覗いてみると、線だと思っていたものが連続する小さな点であることがわかります。線のように映る生は点の連続であり、すなわち人生とは、連続する刹那なのです。

『嫌われる勇気』(岸見一郎, 古賀史健 著)

一方で、人生は見方によっては線、ということができます。
茂木健一郎「クオリアと人工意識」では、次の様に述べられています。

 寝る前と目覚めた後の「私」はが同じ「私」であると考える上では、記憶が重要な役割を果たしている。
通常の場合には、眠りに落ちる前の記憶が有るので、眠りに落ちる前の周囲の状況(どんな部屋で眠っていたか、ベッドやふとんの様子はどうだったか)と、目覚めた後のそれが一致していれば、そのことで睡眠の前と後の「私」のあり方を繋げることが出来る。

『クオリアと人工意識』(茂木健一郎 著)

人生は点の集合体であるし、線でもある。はて。

人生は点の集合体でもあり、同時に線でもある。

 

この2つを成立させる考えとして、「記録」を導入しようと思うのです。記憶では有りません。記「」です。そう、ObsidianやEvernote, Notion, Dynalist, 日記といった。

 

記憶と記憶の違いとして今回はその「可変性」に注目します。

記憶は、無意識のうちに変化します。辛いことがあっても、時間の経過と共に「良い思い出」に変わることが有るし、逆もまた然り。

記録は、無意識のうちには変化しません。12月21日に取った記録は、自分の意識外では勝手に変化しません(PCをハッキングされて外部から改変される、データ保存にバグが起きてランダムに日付が変わる、などが起こった場合を除く)。

 

つまり、自分が変更しない限り、2021年12月21日の記録は、2022年も、2032年も、ずっと同じのはずですよね。

例えば私の場合、2020年10月28日からObsidianを使いはじめており、その日から毎日、Daily notes を始めとするNotes が残っています。そして途中から日付を入れる設定をしたため、Notesを作成した日付が分かります。

そして半年前に作ったNotesに編集を加えるときには、編集した日付を加える様にしています。
こうすることで、Notesに残った日付が、そのまま自分の歴史を紡ぐことになるのです。

 

これをすることで、人生は「点」になります。
現に2021年3月28日の自分は、嫌われる勇気等の”自己啓発本”についてこう記していました。

「嫌われる勇気などの自己啓発本のたぐいは、自分がしっかりとしている人は「参考」にできるが、救いを求めて読むと怪我をしてしまう。」

2021年12月21日とは明らかに考えが違っているな、と感じました。もうここまで行くと、別人です。

人生は時に、「線」として映る

逆に、どういう時に人生は「線」になるのでしょうか。
私は、記録を残さず記憶だけで残しているとき、人生は「線」になると考えています。

記憶は、変化します。それも無意識のうちに。例えば後知恵バイアスは、自分の認識によって記憶が変化する題材としてしばしば用いられる。

この様な状況を考えてみる。
貴方は野球の監督、投球練習を見て、生徒にフィードバックを行う立場である。そして、生徒が投げた瞬間、時を止めることが出来る。

投球し終わった瞬間に判断した「良し悪し」と、実際キャッチャーミットに入り、ストライクかボールかが分かった後の「良し悪し」は、変化するのではないだろうか。
つまり、「ストライクだ」という結果であれば、「投球フォームは良かったよ」といい、「ボールだ」という結果であれば「投球フォームのココが悪かったね」とケチを付ける、そんな状況になっていないだろうか、ということだ。

 

もっと簡単な例を紹介しよう。例えば、「テスト対策方法」などにも後知恵バイアスがかかりやすい。

結果が返ってくるまでは良さそうに見えた方法でも、結果が返ってきて、満足行かない結果だった後ではテスト対策に粗が見え始める。より正確に考察がしたいなら、結果が分かる前に。

野球の例と、テスト対策方法の例で言いたかったのは、「記憶は簡単に変化する」ということ。

現在と過去の間に認知的不協和が生じた時、記憶は変化するのです。現実を楽しい状態で成立させるために。

この状況では、過去にどんな経験があろうとも、「あの過去があったから今がある」戦法が通用してしまいます。つまり、「過去と今は1つながりのもの」、「線」です。

認知的不協和に関しては別Note にて紹介しているので、気になった方はそちらを御覧ください。

自分の人生、線でみるか。点でみるか。

今の私は、人生をできるだけ多くの点で記録し、それを後から見返せる状態にすることを最重要項目として設定しています。

その分、認知的不協和を解消することが出来ず、苦しむこともありました。「知らず識らずのうちに自己欺瞞をしていた」よりよっぽどマシ、と今はそう考えています。

人生を1本の線と捉えるか、小さな点の集合体と捉えるか。

嫌われる勇気ではその最後に、こう付け加えられています。

ええ。われわれはもっと「いま、ここ」だけを真剣に生きるべきなのです。過去が見えるような気がしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣に生きておらず、うすらぼんやりとした光のなかに生きている証です。

『嫌われる勇気』(岸見一郎, 古賀史健 著)

 

「いま、ここ」を全力で生きていこうと、強く思います。目が覚めたらムキムキマッチョになっている世界線は、ない。今日一日全力で筋トレした人間だけが、ムキムキマッチョになれるのだ。

では。

 

 

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